Last Updated on 2023年12月16日 by admin
NHK大河ドラマ「いだてん、東京オリンピック噺」は2人の主人公がリレーで繋いでいく物語です。
日本人初のオリンピック選手・マラソンの父と言われる金栗四三と1964年の東京五輪実現に尽力した田畑政治の二人。
ここでは前半の主人公金栗四三、いだてんその人にスポットを当てていきたいと思います。
目次
「とてつもにゃあ人」
主人公を演じる中村勘九郎は金栗のことをこう言っています。
「とてつもにゃあ」とは金栗の故郷熊本の方言で、「とんでもない」という意味。
とんでもなく純粋にマラソンのことしてか考えていない一途な人だと評します。
勘九郎はこの役に臨み身体を絞り、マラソンを基礎から学び、金栗の走り方を徹底的に研究し身体に叩き込み、とてつもにゃあ努力をしてきました。
「韋駄天通学」
この一見天才的にも見えるいだてん、実は幼少の頃は虚弱体質でいつも家族に心配をかけていたとのこと。
ところが10歳になり6km先の高等小学校に通うことが転機に。
この往復12kmの山道を近所の仲間たちと走って通うことでどんどん体力がつき、知らず知らずマラソンの基礎を築くことになったのでした。
「マラソン」との出会い
中学卒業後、金栗は尊敬する嘉納治五郎が校長を務める東京高等師範学校(今の筑波大学)に入学(1910)。
ある日街なかを走る集団に出くわし、はじめて「マラソン」なるものを知りました。
今の日本人なら老若男女知らない人がないこの言葉と金栗との出会いでした。
オリンピック選考会
その翌年、嘉納らの尽力でオリンピック、ストックホルム大会に日本からも出場できることが決まり、選考会が催されました。
この時、金栗は世界記録(当時は25マイル=40,225km)より27分も早い時間でゴールインしたことで、オリンピック初参加、初メダルという大きな期待が寄せられました。
またスポーツ万能ダンディ三島弥彦は短距離で選ばれ、共にオリンピックへの道を進んでいきます。
この時金栗が履いた足袋は長距離走行に耐えきれずボロボロになり、途中から素足で走ったとのこと。
その後足袋屋と共に工夫を重ね、オリンピックに向けて底を強化した「マラソン足袋」と呼ばれる改良足袋を開発していきました。
ストックホルム大会
こうして迎えたオリンピック、初めてのこととて要領が分からず次から次へと難題が。
- 日本からスエーデンまでは船とシベリア鉄道で20日余り、2人とも体力を消耗し、それをサポートするノウハウもありません。
- 予算が少なく米を十分に持って行けず(当時スエーデンにはなかった)、栄養不足。
- スエーデンは緯度が高く、特にこの期間中は白夜で、睡眠不足という過酷な状況。
消えた日本人選手
そして当日、またもやハプニングが!金栗を迎えに来るはずの車が来ない。間に合わないので競技場までひた走り。
更に悪いことには40度という記録的な暑さの中で競技が始まり、68名の参加者のうち半数が棄権。
倒れた人の中には翌日死亡した人も現れる始末。
おまけにマラソン足袋は舗装した道路を想定していなかったため、耐え切れずに膝をこわす。
折り返し地点の給水所に金栗が寄った形跡はなく、そのまま行方不明になってしまいました。
そしてコースを外れて日射病で倒れていた金栗は、運よく近所の農家ペトレ家に助けられ、自宅で介抱されました。
金栗が目を覚ましたのは翌朝で、すでにレースは終了。
完走出来なかったことをわが身の恥とし、死ぬことは簡単だが生きてこの屈辱を晴らすため努力し、必ずこの皇国の名を揚げることを心に誓いました(翌日日記より)。
一方短距離の三島は既に敗退していました。日本人の体力不足、技の未熟さを思い知らされた嘉納団長と、三島、金栗の3人は閉会式を待たずに帰国することに。4年後のベルリンオリンピックに夢を託し、途中でベルリンに寄って競技場を視察したり、日本では手に入らない槍や砲丸などのスポーツ用品を買い、帰国しました。
途中棄権の意思表示をしないままでしたので、この後長い間「消えた日本人選手」と言い伝えられました。
ベルリンオリンピック(1916年・大正15年)
前年の第2回選考会でまたもや2時間19分20秒3と世界記録を大幅に更新。
ベルリンで金という大きな期待がかけられました。
しかし残念ながら第1次世界大戦勃発でオリンピックは開催できませんでした。
- アントワープオリンピック(1920年)
大半まで上位で進みながらも、雨と寒さで膝を痛め、惜しくも16位 - パリオリンピック(1924年)
32,3キロで途中棄権。
体育教育
しかしこの間金栗は体育教育(特に女子)の発展に尽力し、駅伝などを発案、マラソン後継者を育成しました。
3回に分けてマラソンで全国走破も達成しました。
カナクリ足袋
ストックホルム大会で石畳の道をマラソン足袋で走り膝を壊した金栗は、その後足袋屋と共に強力なゴム底のカナクリ足袋を開発。
金栗自身は不調に終わりましたが、足袋はその後多くの日本人マラソンランナーたちに愛用され、数々の輝かしい成績を残しました.
- 1936年ベルリンオリンピック:孫基禎(金)、南昇竜(銅)
- 1951年ボストンマラソン:田中茂樹優勝など
54年8ヵ月6日5時間32分20秒3のゴール
1967年(昭和42年)ストックホルムオリンピック開催55周年記念式典を開催。
当時スエーデンの記録では金栗は「競技中に失踪、行方不明」のままでした。
一新聞記者が金栗の自宅を訪ねこの謎を解明。
これを受けて委員会は式典に金栗を招待し、ゴールインさせるという粋な計らいをすることに。
金栗は競技場を心置きなく走り、念願のゴールを切りました。
この時「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム・54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンス。
そして金栗は「長い道のりでした。この間に子供6人と孫が10人できました」と述べ、大観衆の喝采を浴びました。
今なお続く交流
その後も金栗家とペトレ家、玉名市とストックホルムの交流は続きます。
2012年には「五輪100年記念マラソン大会」と金栗の功績をたたえた顕彰銘板の除幕式が開催。
金栗のひ孫と玉名市長が招待され、同じコースを完走し曽祖父が果たせなかった夢を叶えました。
この両家・両市にとってオリンピックは単なる過去の物語ではなく、過去から未来へと人々を繋ぐ糸となっているのです。
参照
https://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/112/2193.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/金栗四三
https://ja.wikipedia.org/wiki/三島弥彦
https://ja.wikipedia.org/wiki/マラソン足袋
朝日新聞 1/1,1/6